夫が逮捕・勾留されましたが,やっていないとの主張が認められて不起訴になりました。しかし,釈放まで約20日間も勾留されたために夫は会社から解雇されてしまい,経済的に大きな損失を受けています。国に金銭的な補償を求められませんか?
1 仮に,逮捕・勾留されたまま起訴され,裁判で無罪判決を受けた場合であれば,国に対し,逮捕・勾留された日数に応じ,日額1000円以上1万2500円以下の割合による額の補償金を請求できます(刑事補償法1条,4条)。
これに対し,起訴されなかった場合であっても,被疑者補償規程(以下,「規程」と言います。)により,補償される場合があります(以下,無罪判決を受けた場合の補償を「刑事補償」と言い,起訴されなかった場合の補償を「被疑者補償」と言います。)。
この規程によれば,被疑者補償に関しても,刑事補償と同様,逮捕・勾留された日数に応じ,日額1000円以上1万2500円以下の割合による額の補償金が支払われることとされており(規程3条),また,「補償の申出」があった場合には,補償に関する事件を立件する(=補償手続を開始する)とも定められています(規程4条3号)。
2 もっとも,実際に被疑者補償が受けられるかについては,これから述べる高いハードルがあります。
決して手厚い補償がされているとは言えず,むしろ,残念ながら,現実的には,被疑者補償はほぼ認められていないのが実情です。
すなわち,規程2条では,被疑者補償が認められる場合は,「その者が罪を犯さなかったと認めるに足りる十分な事由があるとき」に限定されています。
また,規程4条では,検察官に対し,「罪とならず」又は「嫌疑なし」の不起訴裁定主文による不起訴処分があったときには補償に関する事件を立件することを義務付けている(同条1号)一方で,上記以外を理由とする場合には,例外的に,「不起訴処分を受けた者が罪を犯さなかったと認めるに足りる事由があるとき」に限り,補償に関する事件を立件することを義務付けているに過ぎません(同条2号)。
「罪とならず」とされるのは,逮捕事実がそもそも犯罪を構成しないなどの極めて希な場合だけですし,「嫌疑なし」とされるのは,被疑者と犯罪とのつながりを証明する証拠が全く存在しなかったり,被疑者が犯罪とは無関係であることを示す明らかな証拠があった場合などの,これまた極めて希な場合だけです。これらの場合,そもそも逮捕状さえ発布されないことが多いでしょうから,被疑者補償が問題となることさえほとんどないとも言えるのです。
これに対し,検察官が証拠不十分を根拠に不起訴処分をする場合の大多数は,「嫌疑不十分」という不起訴裁定主文によるものです。これは,文字通り,「起訴して有罪にできるだけの十分な証拠が無い。」という理由での不起訴であり,裏を返せば,「犯罪の成否の真偽は不明である。」と言ってるにすぎないわけです。
そのため,大多数の場合は,「不起訴処分を受けた者が罪を犯さなかったと認めるに足りる事由があるとき」には当たらないとして,補償に関する事件が立件されることさえないのが実情なのです。
3 このような実情に対しては,同じく証拠が不十分であるのに,起訴されて無罪になれば手厚い刑事補償を受けられるのに対し,起訴されなかった場合には被疑者補償を受けられないのは不公平であるという疑問は拭えません。
実際,そのような疑問を訴える裁判(検察官が嫌疑不十分とした処分等の違法性を争う国家賠償請求訴訟)が提起されましたが,これに対する裁判所の判断は,「刑事補償制度は,無実であることが確定した者に対してその損害を補償するものであるが,不起訴処分は無罪判決と異なり暫定的なものであって確定力を持たないものであることから,被疑者補償規程に基づく補償をするに当たっては,無実の者に対してできる限りの補償を認めるとともに,罪を犯した者に対して誤って補償することを避けるという考慮を働かせたものと考えられる。」「そうすると,同規程2条にいう『罪を犯さなかったと認めるに十分な事由があるとき』とは,(中略)犯罪が成立しないことが明らかである場合や,被疑者が犯罪と無関係であることが明らかである場合のほか,証拠上,被疑者の嫌疑が極めて脆弱であるときも含まれるが,一方で,犯罪の成否等が真偽不明のときにはこれには当たらないと解するのが相当である。」「無罪判決と不起訴処分の違いに照らし,原告の主張(不起訴とされた者と無罪とされた者との間の不均衡)は採用できない。」と判示しました(東京地方裁判所平成30年7月5日判決)。
このように,結局のところ,裁判所は,不起訴処分とする理由に多用される「嫌疑不十分」の場合には被疑者補償を要しないとする検察官の運用を追認しているのです。
しかし,突然,身に覚えのない犯罪の嫌疑で逮捕され,約20日間(決して短くはありません)も身柄を拘束された挙げ句に,証拠不十分で不起訴・釈放された者にとって,その間の身柄拘束に対し金銭的補償を受けるのは当然の権利と言えるはずです。
その権利が,「罪を犯した者に対して誤って補償することを避ける」ために犠牲にされている実情には,首をかしげざるを得ません。
実際問題として,嫌疑不十分で不起訴になった被疑者が同じ事件で改めて起訴される事例はとても少なく,裁判所のいう「誤った補償」の危険はそれほどでもないと思われます。また,仮に同じ事件で改めて起訴されて有罪となったのであれば,その時点で,被疑者補償として支払ったお金を国庫に返納させれば済むのですから,上記裁判所の理屈に十分な説得力はないと筆者は考えています。
4 手厚い被疑者補償の実現を更に難しくしている要因は,規程が,法律ではなく,法務省訓令として定められたものにすぎないという点にもあります。
訓令というのは,本来的には,大臣等が所管事務について命令又は示達をするための行政機関内部の決まりにすぎないとされています(国家行政組織法14条2項には「各省大臣,各委員会及び各庁の長官は,その機関の所管事務について,命令又は示達をするため,所管の諸機関及び職員に対し,訓令又は通達を発することができる。」と定められています。)。
これまで被疑者補償の立法化の動きもありましたが,「不起訴になった被疑者に補償請求権を認めるのは相当でない」との理由により,その立法化が見送られてきたという事情もあります。
このような法令解釈や事情から,たとえ被疑者補償を認めなかった検察官の処分を不服として裁判(行政訴訟)を起こしても,裁判所は,「被疑者補償規程は,検察官に対して被疑者に補償すべき義務と権限を与えたものであり,同規程によって国民に被疑者補償請求権が認められているものではない。」「検察官の行う被疑者補償規程に基づく裁定は,これにより直接国民の権利義務を形成し又はその範囲を確定することが法律上認められているものとはいえず,抗告訴訟の対象となる行政処分に当たるとはいえない。」として,検察官の処分の当否に関する判断さえ行われないまま,訴えが却下されているのが実情なのです(前記東京地方裁判所平成30年7月5日判決)。
★千葉市の弁護士事務所『法律事務所シリウス』より★