イギリス刑事法紹介㉕~心神喪失(Insanity)~
イギリス法では、精神疾患等を理由として犯罪の成立を否定する根拠として、心神喪失(insanity)の主張があります。この概念には、日本の刑法上の心神喪失の概念と重ならない部分もあるのですが、便宜上、本稿では「心神喪失」という訳語を用います。
なお、イギリス法では、日本法上の「心神耗弱」に相当するような概念はありません。ただし、殺人罪(murder)の場合のみ、精神疾患等を理由として判断能力が落ちていた被告人について、傷害致死罪(manslaughter)へと罪名を落とす限定責任(diminished responsibility)の抗弁が認められることがあります。
イギリス法上の心神喪失の概念については、判例法により、「理性の欠如を引き起こす精神の病により、行為の性質が分からなかった場合や、行為が違法であることを分からなかった場合に、心神喪失となる」と整理されています。
ここでいう「精神の病(desease of mind)」は、統合失調症や躁鬱病といった狭義の精神疾患に限定されているわけではなく、判例法上、動脈硬化や糖尿病といった身体疾患によって引き起こされた精神の異変も含まれるとされています。ただし、「精神の病」は暴力に発現する必要があるとされており、クレプトマニア(窃盗症)などのような暴力につながらない精神状態は、心神喪失を基礎付ける事情にはならないと理解されています。
また、「違法であることが分からない状態」というのは、法律違反を認識していないことを意味するわけではなく、善悪のレベルで判断ができない状態を意味しています。
そして、イギリス法では、こうした心神喪失を基礎付ける事情について、被告人側が立証責任を負うとされています(ただし、証明の程度は、「証拠の優越」で足りると解されています。)。この点については批判もあり、検察側に証明責任を負わせるべきとの意見も強いようです。
心神喪失の判断が示された場合、最終的な処分としては、刑事処罰が科されることはなく、入院命令、監督命令、釈放命令の中から選択されることになります。
※本稿におけるイギリス法の説明は、イングランド及びウエールズ圏内において適用される法規制に関するものです。
弁護士/英国弁護士 中井淳一
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★千葉市の弁護士事務所『法律事務所シリウス』より★